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(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま
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ホーム > 観光モデルコース > 悠久の歴史にふれる - (6) 古代山城 金田城と防人~対馬・万葉の旅その1~

観光モデルコース

  1. 秀吉の朝鮮出兵命令!激動の対馬を旅する
  2. 神代の旅~竜宮伝説・和多都美神社~
  3. 元寇と倭寇 ~海の狼たちの攻防~
  4. 『坂の上の雲』の時代~日露戦争と対馬要塞~
  5. 魏志倭人伝~青銅器王国・対馬~
  6. 古代山城 金田城と防人~対馬・万葉の旅その1~
  7. 悲劇の遣新羅使~対馬・万葉の旅その2~

(6) 古代山城 金田城と防人~対馬・万葉の旅その1~


コース概要

 万葉集(まんようしゅう)は、天皇・貴族から庶民・防人までさまざまな人々が詠んだ4500首以上の歌を集めた日本最古の和歌集です。万葉集全20巻のうち、巻20の防人(さきもり)の歌(巻13、14にも含まれる)、巻16の志賀荒雄(しかのあらお)の死を悼む歌、巻15の遣新羅使(けんしらぎし)の歌が、対馬と深いかかわりをもっています。万葉集に描かれた古代対馬の文学ロマンを味わうルートその1「防人編」です。

コース説明

時代背景・7世紀の東アジア
 7世紀、朝鮮半島では百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り広げており、半島南部の百済と倭国(日本)は同盟関係を築いていましたが、660年、超大国・唐と新羅が連合して百済を滅亡させるという事件が勃発します。百済の救援要請を受け、倭国は朝鮮半島に援軍を送りますが、663年「白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い」で大敗。唐・新羅連合軍が日本本土を侵略するおそれが生じたため、筑紫・壱岐・対馬に防人・烽(とぶひ)を設置し、西日本各地に古代山城を築き、大陸からの侵略に備えました。
防人(さきもり)について
 防人は、664年、壱岐・対馬・九州北部に配置された辺境守備兵です。初期の防人は主に東国から徴発され、武器や食糧は自前で準備、任地に到着してから3年間を自給自足しながら警戒にあたりました。農村では徴発により深刻な労働力不足がおこり、また生きて任地から戻る保証もないため、防人本人にとっても家族にとっても非常に重い負担でした。「防人の歌」の大半は、望郷の念や、故郷に残してきた親・妻・子どもたちへの想いと惜別の情に満ちています。
金田城(かなたのき)について
 金田城は、現在の対馬市美津島町黒瀬(浅茅湾の南岸)にある天然の岩塊・城山(じょうやま)を利用して667年に築かれたとされる古代山城のひとつです。白村江の敗戦によって対馬は国防の最前線となり、東国からやってきた防人たちが国境の海を睨んでいました。山頂からは1300年以上前に防人が見たであろう水平線(気象条件がよければ朝鮮半島が見える)を望むことができます。当時の石垣などの遺構がよく残り、国の特別史跡に指定されています。
志賀 荒雄(しかのあらお)について
 防人は自給自足しながら辺境警備の任にあたるのが原則ですが、岩がちで耕地の少ない対馬では自給自足ができず、大宰府の命令で食糧を輸送していました。神亀年間(724~729)、宗像の水夫が食糧輸送の船頭に命じられましたが、老齢と健康上の問題のため友人の「志賀 荒雄」に代役を頼みます。荒雄は、「住んでいる郡は違うが長年の付き合いで絆は兄弟よりも篤い。たとえ君のために殉死することがあっても断りはしない」と代役を引き受け、五島の三井楽の港を出港したところ、とたんに暴風荒波に飲み込まれ、帰らぬ人となりました。友情のために散った志賀荒雄の死を悲しむ挽歌が万葉集に残されています。

コース所要時間

対馬観光物産協会
↓ 徒歩1分
神功皇后の腹冷やし石
↓ 徒歩1分
対馬市交流センター
↓ 車で25分
県道24号線・城山入口
↓ 車で28分
対馬観光物産協会
※(一社)対馬観光物産協会は、長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま にあり、厳原港から車で3分、対馬空港からは車で20分です。

コース図

観光コース紹介

(一社)対馬観光物産協会
 観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
【所在地】 〒817-0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
【電話】 0920-52-1566
【アクセス】 厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分。

(1)神功皇后の腹冷やし石
 対馬市役所前の桜橋公園の一角に、高さ1mほどの石柱が立っています。三韓征伐に乗り出した神功皇后が、対馬に立ち寄った際に産気づき、この石で腹部を冷やして出産を延ばしたと伝えられています。神功皇后伝説は、日本の対外進出や白村江の敗戦など、外国との緊張関係のなかで対馬・壱岐・九州北部を中心に広がっていったと考えられ、島内に多くの伝承地があります。

(2)防人の島(万葉画)
 万葉画家・鈴木靖将氏の作品で、2009年に対馬市に寄贈され、対馬市交流センター3階(大会議室外壁)に展示。
「対馬の嶺(ね)は、下雲あらなう神の嶺に、たなびく雲を、見つつ偲(しの)はも」(巻14-3516)
という歌を題材にしたもので、若い防人が遠く離れた恋人に想いをはせる情景を、厳原町の豆酘崎を舞台に描いたもの。

観光コース紹介(城山トレッキング)

(3)金田城跡
 防人が常駐していた金田城を知るには、現地を歩くのが一番です。金田城がある城山(じょうやま)は標高276mの巨大な岩塊で、本来は簡単に行くことができない地形ですが、日露戦争前に再度要塞化され、山頂近くまで軍道が整備されており、歩きやすくなっています。詳しいルートは
 >>モデルコース(自然編)【トレッキング】(2)防人が築いた古代要塞 金田城トレッキング

南西部石塁
 うっそうとした森の中に、小さな万里の長城のような状態で石塁(せきるい)が残されています。金田城跡は、石塁と天然の地形によって守られた7世紀の要塞です。

城山山頂
 山頂からは、防人も見たであろう水平線を望むことができます。1300年前とほとんど変わっておらず、気象条件によって韓国が見えることもあります。

防人住居跡(ビングシ山)
 二ノ城戸と三ノ城戸の中間地点には防人住居跡があり、金田城の中枢だと考えられています。

一ノ城戸(いちのきど)
 城山を取り囲む城壁の一部に、城戸(きど、城門)が設けられています。城壁の内部に入るには城戸を通る必要がありますが、水流が海辺へと流れ出る谷間は、外部と出入りがしやすく、食糧などの輸送がしやすい反面、敵に侵入もされやすいため、高い城壁と門を築いて防御力を高めているようです。

大吉戸(おおきど)神社
 八幡神(神宮皇后・応神天皇)を祭り、城山の守護としたもので、日本三代実録(日本の正史・六国史のひとつ)に860年に神位を授かった記載がある名社です。

オプションルート 「防人・上津軍団の拠点・千俵蒔山」

(4)千俵蒔山(せんびょうまきやま)
 金田城が対馬防衛の本営だとすると、対馬北西部の千俵蒔山はまさに最前線。気象条件がよければプサンから巨済島までの間が見える要所で、防人と烽が配置されたと考えられています。

 現在、千俵蒔山には風力発電の風車が立っています。左の風車の奥に見えている山が、北部の名山・御岳(と平岳)。

防人の歌

父母が 頭(かしら)掻き撫で 幸(さき)くあれて 言ひし言葉そ 忘れかねつる 巻20-4346
【現代語訳】 父母が 頭を撫でて 達者でいろやと 言ったことばが 忘れられない
唐衣(からころも) 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして 巻20-4401
【現代語訳】 唐衣の 裾に取りすがり 泣く子供を 残してきたことだ 母親もなくて
防人に ゆくは誰が夫(せ)と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(も)ひもせず 巻20-4425
【現代語訳】 「防人に 行くのは誰の夫」と 問う人を 見ると羨ましいことだ 物思いもせずに

志賀荒雄の歌

荒雄らを 来むか来じかと 飯(いひ)盛りて 門に出で立ち 待てど来まさず 巻16-3861
【現代語訳】 荒雄が 帰ってくるか来ぬかと 飯を盛って 門に出で立ち 待つのに帰って来られぬ
沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ 巻16-3866
【現代語訳】 (沖つ鳥) 鴨という名の舟が 帰って来たら 也良の防人よ すぐに知らせてくれ

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